邪馬台国阿波説を検証する(番外編5)
20251005
積石塚と独立棟持柱建築(神明造り)文化の2重構造は??
・番外編で恐縮だが、阿波徳島には魏志倭人伝以外に色々と謎が多い。
・今日の話題は、前回紹介した山口博著の「ユーラシア文化の中の纏向・忌部・邪馬台国」からである。番外編(その4)でも書いたように刺激的で夢中になって読んだ。
・その中から興味を惹かれた論点を以下に書き出す。
1 北方遊牧騎馬民族系文化の影響
① 番外編(その4)で書いたように、鳴門の大麻山の麓にある萩原2号墳と奈良纏向のホケノ山古墳が、積石塚、木槨、割竹形木棺(刳抜式木棺)という3点セットを有しており、これはスキタイや匈奴等の北方遊牧騎馬民族の埋葬形式と共通していることである。
② また、萩原2号墳とホケノ山古墳には合計10個にもわたる類似点があり、注目すべきは、徳島の青石がホケノ山に使われていること、また水銀朱も徳島県の若杉山遺跡産出であることである。これから山口氏は奈良の前方後円墳のルーツが徳島から大和に移った。更にホケノ山古墳は忌部の有力者の墓ではないかと想定している。
・つまり、徳島・香川の古代部族(山口博氏に習って以下「プレ忌部」と呼ぶ)は古墳という埋葬形式において北方遊牧騎馬民族の文化を引き継いでおり、山口博氏も書くように渡来系種族と考えられる。
2 中国南方長江文明の影響
③ 一方、プレ忌部のもう一つの文化的特徴として、伊勢神宮の神明造りで有名な独立棟持柱建築を造っていたことである。阿波市阿波町で発掘された桜ノ丘遺跡から独立棟持柱建築が発掘されている。その1つは神殿ではないかと考えられているが、中心に心柱のような痕跡がある。伊勢神宮の心柱が何のための柱か議論があるが、これは独立棟持柱の痕跡で神様の降臨する依代と考える説がある。
・こうした独立棟持柱を持つ建築については香川の銅鐸に描かれた絵からも弥生時代から建築されていたことがわかる。これは文化的には明らかに中国南方の長江文化の高床式建築の影響によるものと考えられる。(ミャオ族の高床式倉庫など)
しかもこの独立棟持柱建築は纏向遺跡からも発掘されており、忌部族が後の時代の伊勢神宮の造営も担当したとされている。
3 文化の2重構造はなぜ生じたのか?
・プレ忌部は遺跡から見て鳴門と三好郡の愛媛県との県境近くに2つずつの高地性環濠集落(防衛施設)をもち、吉野川流域のプレ忌部エリアを守っていた。
・香川にも共通して言えるが、積石塚という北方遊牧騎馬民族系文化と同時に独立棟持柱という中国南方長江文明の影響も強く見られる。これを「文化の2重構造」と名づけたが、こういう現象がなぜ起こったのだろうか?
・その説明のための仮説(物語?)は次回以降に検討する。
・山口博氏は、プレ忌部が阿波から大和の纏向に東遷し、纏向の祭祀などを行ったと考えているが、残念ながら阿波が邪馬台国であったとは考えていない。
山口博氏の著書
北方騎馬民族の影響を受けた埋葬施設
伊勢神宮の神明造
桜ノ岡遺構の独立棟持柱建築
「独立棟持柱と祖霊祭祀」(設楽博巳論文)から引用
香川出土の銅鐸に描かれた建築
ミャオ族の高床式倉庫
「中国の高床式住居」(周逹生論文)から引用
インドネシア・トラジャの民家
邪馬台国阿波説の検証(その3)
魏志倭人伝の距離はどのように計測されたか?
20250930
・今回は番外編ではなく本来の阿波説の検証作業を少し進める。
・阿波説の検証には検証(その2)で書いたように、まず『郡(帯方郡)より女王国に至る万二千餘里なり。』という記事の「万二千餘里」が、①行程の区間距離を足し合わせたもの(加算説)か、②直線距離を計測したもの(直線距離説)かのどちらかということである。阿波説は②の直線距離説を採用している。
・阿波説②が成り立つためには当時の魏の測量技術や数学(算術)の水準で12,000余里という直線距離が計測できたかどうかを検証する必要がある。
・この問題に取り組まれた先達として半沢英一氏の著作『邪馬台国問題( 九章算術の語法で書かれた倭人伝行路記事)』が参考になる。この著作で半沢氏は魏志倭人伝の行程距離は中国古代の数学書である「周髀算経」や「九章算術」(後漢〜魏に成立)にある「一寸千里法」などを基に計測されており、里数は短里であることを示した。
・一寸千里法は蓋天説(地球は平面と考える)に基づくものであり、丸い地球の場合には誤差を生じる。そこで地球が丸いことを前提に計算したのが、測量史研究者の谷本茂氏であり、その計算に寄れば短里の1里は76〜77mとなる。
・1寸千里法は、2地点で夏至の太陽南中時に8尺の棒を立ててその影を測る。影の長さが1寸違う場合にはその2点間の距離は千里になるというものである。これで南北の距離が計測できる。また、九章算術では海島算経という島にある山の高さを計測する方法も示しており、この方法を使えば見通せる場所であればその間の距離も計測できる。
・半沢氏はこうして魏志倭人伝の距離の計測法を明らかにしながらも、古田武彦氏の加算説(傍線読法)に拘ったため、邪馬台国を北九州の甘木市付近と想定している。
・阿波説②の立場で、魏志倭人伝の行程距離を数学で解く問題に取り組んだのは邪馬台国研究会会長の土佐野治茂氏である。阿波古事記研究会の講演で使われたスライドから百里、千里、万里の計測方法を添付する。半沢氏と同じく周髀算経や九章算術で採用されていた当時の技術で計測可能であることを示したものとして高く評価される。
・具体的な説明は省略するが、2地点間が見通せる範囲(百里、千里まで)であれば計測できる。逆に言えば見通せないところは水行十日とか陸行一月などの表記になっていると考えられる。
・それでは見通せない『万里の計測』はどのように行ったのか?南北方向の距離は緯度に対応するものなので一寸千里法で計測できるが、東西方向の距離の計測はこの当時は簡単ではなく正確な時計が作られるまで難しいことであった。なお、南北と東西の距離がわかれば直角三角形の斜辺はピタゴラスの定理に基づいて計算できる。これは当時から知られていた。
・土佐野氏は東西距離を計測するために『月食事における時刻の同時性』という現象を用いて東西間距離を計測し、帯方郡から阿波(徳島)までの距離を計測している。しかし、これはかなり高度な方法で理論的には当時も可能であったが、魏の使者が実務的にこの方法を採用したかどうかについては疑問が残る。
・魏志倭人伝では一般に方位と距離を示している。東に百里というように。では12,000余里には方位が示されているのか? これは倭人伝冒頭の『倭人は帯方の東南大海之中に在り』と東南方向が示されているので、帯方郡から盗難に12,000余里と考えられている。ただし当時は12方位なので東南といっても添付図のように阿波(徳島)から鹿児島くらいまでの範囲を含めて考える必要がある。
・そこでもっと万里計測の簡便な方法はないかと探していたら、野上道男氏(東京都立大学名誉教授)の『古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置』という論文があった。野上氏の方法は、南北距離は一寸千里法で求めるが、東西方向の距離を月食などを使うのではなく、辺の比が、3:4:5の直角三角形を考え、その斜辺(5にあたる)が12,000里になる時の南北の距離(4に当たる)を逆算するという簡便な方法である。この方法で求めると、斜辺が12,000里に当たるのは残念ながら宮崎市当たりになる。こうして野上氏の説は邪馬台国宮崎説となっている。(添付図参照)
・野上氏が辺長3:4:5の直角三角形を用いたのは冒頭に書いた周髀算経でピタゴラスの定理(三平方の定理)の証明に使われて馴染みのあるものであり、斜辺の方向が頂点から東南にあるからである。
・ではこれで邪馬大国は宮崎説で決まりなのか? これだけでそう決めていいのか?
次回以降の検証では阿波説と宮崎説を比較しながら検証を進めることになる。
周髀算経
一寸千里の法
谷本茂の図解
百里の計測
千里の計測
万里の計測
東南の範囲
野上道男説
周髀算経による三平方の定理の証明
邪馬台国阿波説を検証する(番外編4)
20250825
積石塚古墳から一気に邪馬台国探しの本命に!!
①積石塚古墳への興味からそのルーツを探る内に、遼河文明(紅山文化)がルーツかと思っていたが、更にスキタイ文明の王墓が積石塚であり、匈奴を含む遊牧民族に共通する墓制であることがわかった。そして更に忌部、遼河、スキタイを結ぶ言わば本命とも言えるような学説にぶち当たった😀。
②それは富山大学名誉教授の山口博氏の著作である。(産経新聞にも取り上げられた)。山口氏の調査によると、ホケノ山古墳や萩原1号墳の埋葬施設の特徴(積石塚・木槨・くりぬき式木棺)がすべてそろう古墳が、北方ユーラシアに数カ所あるという。
③それは遊牧民スキタイの王墓で紀元前4世紀のパジリク古墳(旧ソ連のアルタイ共和国)や、漢民族を脅かした遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)の王墓とされるノヨン・オール古墳(モンゴル)などであり、どれも日本に木槨や前方後円墳が出現する2~3世紀より古いものである。
④これら古墳の木槨内では、天上の神の世界を語る鳥装のシャーマンが、衾類を用いた秘儀を行っていたと山口氏はみる。天日鷲神(あめのひわしのかみ)など鳥名を持つ神がルーツとされる古代氏族・忌部氏がそのシャーマニズムの系譜に連なり、前方後円墳の生みの親になったというのだ。
④積石塚古墳の追及から一気に視界が開けた感じがする。この山口博氏の説が正しければ、3世紀以前から積石塚古墳の存在する徳島の吉野川両岸と香川にまたがるエリアが邪馬台国であったと考えても良いのではないか。それなら7万戸存在したとしても不思議ではない。
実に面白い展開になってきた😀。
遼河文明(紅山文化)
積石塚・木槨・くりぬき式木棺の揃う古墳
麁服出発式
スキタイ王墓の積石塚古墳
邪馬台国阿波説を検証する(番外編3の追伸の追伸)
20250830
思い余って徳島県立博物館の鳥居龍蔵記念館の学芸・企画担当の方に問い合わせた。
「鳥居龍蔵氏は本当に積石塚古墳を知らなかったのか?」と。
答えが来ました。
以下にその回答文を引用します。
★「1890年12月 「板野郡大寺村の聖天堂の直ぐ隣の箱式石棺を、香川樟三郎と共に発掘調査。(1891年 「徳島近傍の石棺」『東京人類学会雑誌6-63』で報告)」」
これが、最も直接的な内容と思われます。聖天堂は鳥居が調査を行う7年から8年前に建設され、その際の工事で「高く積み上げた石を取り除いたら石棺や土器が出てきた」と鳥居が文章の中で触れています。この積み石塚については、現存はしませんが、「阿王塚古墳」という名称で知られている古墳時代前期の円墳を指しています。
鳥居が実際に調査のため現地へ赴いた際には、この古墳が消失していたため、「直ぐ隣の箱式石棺」を調査したようです。このことから「積み石」を調査できたわけではなさそうです。
(図録「鳥居龍蔵、徳島を探る」では、11ページに掲載しているスケッチのうち、「I」が「聖天堂(阿王塚)」の積み石墓の石室内を示す図となります。)
★また、「徳島近傍の石棺」『東京人類学会雑誌6-63』には、名東村地蔵寺山にも、積み石のような墳丘墓と石棺があったことを記述しています。これも鳥居が直接調査したものではなく、土地の人にヒアリングした結果のようです。該当する古墳などは、現在では特定は困難です。
(図録「鳥居龍蔵、徳島を探る」では、11ページに掲載しているスケッチのうち、「H」が「名東村地蔵寺山」の積み石墓内の石棺の配置場所を示す図となります。)
これらのことから、
・鳥居は、20歳代の頃には、徳島に「積み石塚」が存在することを認識していた。
・自身が調査していない遺跡としても、情報を得たら積極的に雑誌等に投稿するほど関心は高かった。
以上
ということです。
やはり鳥居龍蔵氏は積石塚古墳を知っていたのです。
しかし、調査数が少ないのと、実物を見ていなかったことでそれ以上の
関心を向けなかったかも知れませんね。むしろ最初のフィールドワークで見つけたドルメンの方に深い関心を寄せたのではないかと思います。実際に徳島の城山貝塚や愛媛の大洲でドルメンらしきものを見つけています。
鳥居龍蔵の書斎
鳥居龍蔵の机
邪馬台国阿波説を検証する
(番外編3の追伸)
20250812
鳥居龍蔵の不思議である。積石塚墳丘墓について、鳥居龍蔵氏は集安や朝鮮で発見しているだけでなく遼東半島の老鉄山でも発見している。
ところが徳島であちこちの古墳(例えば太鼓塚など)を調査しているにも関わらず徳島から香川にかけての積石塚墳丘墓についての調査が見当たらない。これが僕には不思議でならない。もし知っていたら鳥居氏がどのような見解を述べただろうか?残念でならない。
邪馬台国阿波説を検証する(番外編3)
徳島・香川の「積石塚古墳」はどこから来たのか?
20250807
番外編1の「麻について」でシャーマンの積石塚について触れたが、僕はBC2世紀からAD3世紀にかけて香川県と徳島県に集中している積石塚墳丘墓(広義の古墳)に注目している。少し長くなるが、ぜひご一読をお願いしたい。
①まず、香川県の白鳥町にある成重遺跡でBC1世紀からAD1世紀にかけての積石塚が発掘された。
②徳島県では3世紀初頭とされる「萩原2号墳」が発掘され、纒向の「ホケノ山古墳」(3世紀中頃、前方後円墳の先行形態とされている)に先行するものではないかと話題になった。これも実は積石塚なのである。その他に東みよし町の足代東原遺跡の積石塚群。また昨年発見された海陽町の多良古墳群でも初期の前方後円墳(3世紀中頃〜4世紀)が見つかり後円部に葺石がされているとある。(積石塚が葺石のルーツという説もあり)
③香川では、積石塚古墳として有名な石清尾山(いわせおやま)古墳群の中にある「鶴尾神社4号墳」、さらに標高405mと四国で一番高い所にある「野田院古墳」が3世紀末あるいは3世紀後半とされている。
④このように、弥生時代から古墳時代に先行する形で徳島と香川には積石塚墳丘墓が数多く発掘されているのである。
⑤学会の定説では、これらは石の豊富な地域に特徴のある古墳であるとされているが、本当にそうなのだろうか?
⑥ここで、以前話した鳥居龍蔵氏が発見してその後の発掘が進んだ中国東北地方の西遼河沿いの紅山文化(紀元前4700年頃〜紀元前2900年頃)に注目したい。紅山文化の遺跡からも積石塚が発掘されているのである。
⑦おそらく紅山文化が影響して高句麗でも積石塚墳丘墓が造られ、中には日本の前方後円墳に似た「前方後円形」の積石塚(遺物として銅鐸が発見されている積石塚もある)があり、学者の中には、これが日本の前方後円墳のルーツではないかという説を唱える者もいる。
⑧中でも僕が注目しているのは、古韓尺※(1尺🟰26.7cm)を導き出した新井宏氏の論文や著書である。纒向遺跡の建物跡や纒向古墳群の寸法などがこの古韓尺によく当てはまるというのである。そこで高句麗の古韓尺を持つ古墳文化が朝鮮半島を南下し、対馬・九州を経て大和にも到達したのではないかというのである。
⑨しかし、高句麗文化が朝鮮半島南端に到達したのはどう考えても280年頃らしい。
これでは3世紀以前から香川や徳島にある積石塚墳丘墓に影響を与えたというのにはかなり無理がある。
➉それではやはりこれらは徳島・香川で独自の発展を遂げた積石塚なのであろうか?
ここからは僕の推測になるが、②で上げた萩原2号墳には実は中国産の朱(硫化水銀)が使われていたのである。実は徳島には弥生時代から若杉山という水銀鉱山があったが、それは使われていない。その水銀は陝西省のものであるとも推測されている。因みに魏の首都である洛陽は陝西省にあったので魏からもたらされたものかもしれない。
⑪つまり、倭国にはルートとしては朝鮮半島経由かもしれないが、様々な中国の文化が直接流入していたのではなかろうか。紅山文化の積石塚文化を高句麗ではなく中国からの渡来人が直接徳島・香川に伝えていたと考えても不思議はない。実際に魏から倭には様々な品が届けられているのである。今のところその証拠はない😀。
⑫なお、長野や山梨に6世紀頃になって積石塚墳丘墓が増加するが、これは高句麗文化の影響を受けていたという説が有力である。
※注:古韓尺というのは、その物差しが実際に発掘されたのではなく、古墳時代の朝鮮半島並びに日本の遺跡について、約1000件の計測データをコンピューターで解析して最もよく合う尺度として選び出したものである。
成重遺跡積石塚
(紀元前2〜1世紀 香川県白鳥町)
成重遺跡積石塚
平面・断面図
萩原2号墓
(3世紀初頭)
萩原2号平面図
萩原2号墓の重要性を伝える新聞記事
海陽町の多良古墳群
(3世紀初頭)
ホケノ山古墳全景
(3世紀中葉)
(前方後円墳の先行形といわれている)
ホケノ山古墳
平面図
野田院古墳
(3世紀後半)
野田院古墳全景
石清尾山古墳群(高松市)全景
鶴尾神社4号墳
(3世紀末)
鶴尾神社4号墳の竪穴式石室
(3世紀末、持ち送り式の石室か?)
紅山文化の積石塚古墳
(紀元前)
紅山文化の積石塚
高句麗の積石塚古墳(前方後円形)
邪馬台国阿波説を検証する(番外編2)
藍について
20250803
徳島で育てられている蓼(たで)藍が日本に伝わったのは飛鳥時代ともいわれているが、果たしてそうだろうか?
①竹内敦子著の「藍」という本を読んでいて、下池山古墳で発見された鏡を包んでいた絹織物「倭文(しどり)」が藍で染められていたことを知った。下池山古墳は3世紀後半の古墳である。これは卑弥呼とほぼ同時代に藍染の技術が日本にあったことを意味する。これは卑弥呼が魏に献上した「班布」ではないかとも想像され、邪馬台国大和説の根拠の一つにされている。ちょっと困るなあ😀。
②一方、魏志倭人伝には、次のような一文がある。
「其四年、倭王復遣 使大夫伊声耆・掖邪拘(狗)等八人一、上 献生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・ ・短弓矢一。」
(その四年(二四三)、倭王は復大夫の伊声耆・掖邪狗等八人を遣使し、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・ ・短弓矢を上献す。) 『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本 (角川ソフィア文庫)』鳥越 憲三郎著
この中の「絳青縑」(こうせいけん)は、藍で染めた絹の布であるらしい。この藍については山藍ではないかという説もあるが、山藍にはインディゴ成分が含まれていない。僕は蓼藍であったと考えている。
③ではその蓼藍はどこで栽培され、藍染に使われたのだろうか?
阿波学会の研究紀要に次のような記述がある。
「湯浅家の古文書によると藍草記には、「大國主命の御子下照媛が藍草をはじめ、種々の草を製し色を見給う、後人称して染姫の神と崇め奉る。人皇37代孝徳天皇の大化元年(645)忌部氏も藍を都に捧じ、これを製し白布を染め献して天子の御服の料とした。忌部氏に藍を作らしめ給う、その路即ち阿波国、名方、板野、麻植、阿波の4郡なり」と結んでいる」。
この古文書が正しいとすれば、忌部氏が645年には藍を栽培し染めていたことになる。
④結論として、古代の藍の栽培がどこで行われたかはわからないが、忌部氏が早くから藍を育てていたことは確かであろう。卑弥呼の藍染の「絳青縑」を忌部氏が制作していたことを想像すると夢が広がってくる。
藍 竹内敦子著
下池山古墳で発見された倭文(しどり)を伝える新聞
下池山古墳全景(天理市)
山藍(蓼藍に似ているが、インディゴ成分を含んでいない)
邪馬台国阿波説の検証(番外編)
麻と藍(まず麻から)
20250730
邪馬台国阿波説の検証には膨大な資料の読み込みが必要である。読めば読むほど迷路に入り込んでいるようだ😀。
・そこで閑話休題として麻の話題を取り上げる。
徳島は一宮が大麻彦神社であるように麻には深い因縁がある。天皇の代替わりの際に行われる大嘗祭には忌部三木家から麻で編んだ「あらたえ」が献上される。
このように忌部と麻の結びつきは良く知られているが、そのルーツを考えてみたい。
・まずここで僕の尊敬する徳島の人類学・考古学の先達である鳥居龍蔵氏の「原始神道と韓国朝鮮のシャーマニズム」を読んでいてハッと気づくものがあった。このシャーマニズムは朝鮮だけでなく広くチベットからモンゴル、東アジア方面に分布しているが、朝鮮ではこのシャーマンのことをムーダンという。シャーマンは鏡と鈴を重視し、麻に悪霊を負わせて払い除ける。神道の御幣(ぬさ)にも麻を少し混ぜているのにはそうした背景がある。忌部との関連で言えば、ムーダンが作る積石と千葉安房神社にある忌部の積石の類似にも驚かされる。これが何を意味するのかはまだわからないが、モンゴルのシャーマニズムなどにも現れるオボー信仰(堆石文化)と類似のものではないかと考えている。
・また、徳島では南蔵本遺跡から弥生前期の麻の糸玉が出土している。これは中国・四国地方以西では初めての出土である。因みに、麻については縄文時代の遺跡からも出土しており、糸玉に関しても北海道、東北などで10数例出土している。しかもこの糸玉については朱で赤く染められている。
・このように阿波徳島には弥生前期から麻の糸玉を扱う技術があり、それは忌部とも繋がっているのではなかろうか?しかも忌部のルーツは神道にも繋がるシャーマニズムの影響を受けていることが考えられる。従来から言われているように卑弥呼の鬼道は神道にも繋がるシャーマニズムなのかもしれない。
ムーダンの積石
朝鮮のシャーマンのことをムーダンという。
忌部の積石
千葉安房神社にある忌部の積石
麻の糸玉
南蔵本遺跡から出土した弥生前期の麻の糸玉
(レキシル徳島)
あらたえ1
忌部氏三木家から大嘗祭に献上される麻のあらたえができるまで。
あらたえ2
オボー
モンゴルのオボーはシャーマニズム信仰から造られたもの。同種の堆石文化はモンゴルだけでなく、朝鮮,満州、シベリア、中央アジアに広く分布し、シャマニズムと関係がある。
遂に発見!高野山根本大塔の秘密。
20250717
・昨日、日和佐にある23番札所の薬王寺にお遍路で参拝し、これで徳島は全て回ったことになる。そこで「瑜祇塔」(ゆぎとう)を見たのだ。高さ29mの楼閣。下方が四角、上方が円筒形の塔である。そう高野山の空海が構想した根本大塔と同じモチーフである。
・これは天と地の和合を説く真言宗の重要な経典の一つである『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』から名称をとっている。高野山の「金剛峯寺」の名称もこのお経からとっている。天と地の和合(天円地方)であり根本大塔の空海のコンセプトはこのお経にあったのだ。
・以前から四国八十八ヶ所の霊場は津波を受けない場所にあり、いざという時には避難所にもなるのではないかと考えていた。薬王寺はその典型であり、添付の津波避難マップを見るとその意味がわかる。
・下町には株式会社あわえという地域づくりの企業がかつての銭湯跡の建物に立地しており、ゲストハウスなどもいくつかある。
・この「あわえ」というのは漁師町特有の狭い建物間の路地のことである。おそらく語源は「間(あわい)」から来ていると思う。
・しかし、南海トラフ地震の危機が叫ばれる中で10mもの津波の到来が予想されており、海抜2m程度の下町の将来は心配である。行政としても津波避難タワーを整備していた。
下記の写真は根来寺の根本大塔
関連画像
根本大塔(根来寺)
銭湯跡の建物を活用した株式会社あわえの事務所
ゲストハウス
と路地のあわえ
津波避難タワー
邪馬台国阿波説を検証する(その2)
20250716
・まず(その1)で、阿波説の特徴は、「末盧国」の比定地が通説とは異なること について書いた。魏志倭人伝の行程記事によれば、松浦付近では距離が千余里に
届かず、宗像付近で千余里となること、また、末盧国への行程には方位(南等) の記述はなく、玄界灘の海流を見ても宗像付近が「妥当としていることである
・次に、この行程記事の「距離や方位」の測定はどのように行ったのか?
これについては、当時の魏の時代における地図作成技術や数学のレベルについての理解が必要であり、検証(その3)で「短里」のことなどについて書く予定である。
・今回は、今後検証すべき大きな課題を2つ挙げることにする。
・まず1点目は、「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月」(南、邪馬台国に至る。女王の都する所にして、水行十日、陸行一月なり。)という記事の解釈である。「水行十日・陸行一月」というのが、「①単に次の邪馬台国に至る行程を表す」のか、「②帯方郡から邪馬台国に至る全部の行程を表す」のかという点で意見が分かれている。阿波説は①を採るものが多い。
・2点目は、「自郡至女王國萬二千餘里」(郡(帯方郡)より女王国に至る万二千餘里なり。)という記事の解釈である。「万二千餘里」が、「①行程の区間距離を足し合わせたもの」か「②直線距離」かという点で意見が分かれている。
阿波説は②を採るものが多い。
・この他にも邪馬台国の行程記事の読み方については様々な課題があるが、以上の2点は邪馬台国の比定地を定める上で決定的な影響を与えるものである。
下図を参照
関連画像
邪馬台国への行程
「邪馬台国は隠された」(あおきてつや著)の図をもとに作成
壱岐から対馬、九州沿岸までの距離
(中島尚彦氏作成)
忌部の里を訪ねて(その1)
20250710
東京府知事で市区改正事業に貢献した芳川顕正の生家跡を訪ねる。都立大学の修士時代に教わった明治の都市計画史である。一度は訪ねたいと思っていた。県の図書館で伝記資料もコピーさせてもらった。浅草寺境内を整理し、浅草公園を新設した事績は初めて知った。かなり腹の座った人物であったようだ。漢詩もかなり作っている。号は越山。阿波富士と言われる高越山が生家から見える。余談だが高校時代に地学の先生(クラス担任)に連れられ、クラスの仲間と駆け上った思い出の山である。芳川顕正も忌部の末裔であったのだ。
関連画像
高越山
(芳川顕正の生家からよく見える)
生家の説明板
取り組み
新たなチャレンジは私たちの原動力です。より良いサービス提供を行うことが喜びであり、楽しくも真剣に取り組んでいます。
則天武后の明堂は空海の根本大塔のルーツか?
20250705
空海が高野山に構想した根本大塔はかなりアジア的な建築である。そのルーツについて以前から考えてきた。僕の結論は中国の「天円地方」思想の影響を受けていると考えた。しかし日本建築史では多宝塔の一階に裳階を付けたものというのが定説である。
ここで紹介するのは則天武后が688年に洛陽に建設した「明堂」である。残念ながら695年には焼失したが、発掘され復元図などが作成されている。3層の壮大な建築であり、1階は正方形、2階は八角形、3階は円である。
中国では古代から皇帝が天命を受けて祭祀を行ってきた建物であり権威の象徴である。唐に留学した空海がその歴史を知らないはずがない。根本大塔は密教思想を体現する胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅を納めるため2塔建設された。
ところで皆さんは高野山の奥の院に小さな天皇の御陵があるのをご存知だろうか?その形は上円下方墳の形をしている。昭和天皇の武蔵陵の形である。実は僕は前方後円墳も基本的に同じ思想(信仰)が背景にあると考えている。それについてはまたいずれ。
関連画像
参考文献
明堂(則天武后)発掘平面
明堂(則天武后)復元図
根本大塔
(根来寺)
勝占神社に登る。
20250704
介護滞在も半分ほど過ぎたが、何かと忙しくて徳島探検ができていない。先ずは近くの勝占神社に行ってみた。勝占神社は源義経が屋島合戦に行く前に参拝し戦勝祈願した神社である。当然式内社である。標高65mに鎮座し、昔は麓近くまで海であったと思われる。この辺りは阿波忌部氏の一派の勝占忌部氏がいた所らしい。勝占忌部氏は海洋民族で房総半島の勝浦等を開発したと伝えられている。急な綴れ織の階段を数百段は登り、拝殿に着く頃には暑さで息が切れていた。後で車で登れる道があることがわかった。実は神社の敷地から海が見えると想定していたが、残念ながら樹木が繁茂して何も見えなかった。ちょっと義経の気分になってみたかったのだが、パノラマが見えないと気分は上がらず。
邪馬台国阿波説を検証する(1)
20250627
邪馬台国阿波説を検証する(1)
・義母の介護のため徳島に1ヶ月ほど滞在することになったため、合間を見て徳島を探検したい。今一番気になっているのは邪馬台国阿波説について自分なりに検証することである。
(注目点1)
・阿波説の特徴は、「末盧国」の比定地が、九州説等の通説とは異なることである。つまり通説は末盧国を松浦半島付近(唐津市付近)としているのに対して、阿波説では宗像付近としている。
・阿波説では、松浦付近では距離が千余里に届かず、宗像付近で千余里となること、また、魏志倭人伝を見ても末盧国には方位(南等)の記述はなく、玄界灘の海流を見ても宗像付近が妥当としている。
・末盧国の比定地が異なると当然伊都国の比定地も異なり、邪馬台国に至るルートが変わってくる。
・阿波説も提唱者によって若干比定地が異なるが、通説との大きな相違点がここにある。
(参考:魏志倭人伝の記述)
「対馬国」:始めて一海を渡ること千余里にして、対馬国に至る。「一大国」:又、南して一海を渡ること千余里、名づけて翰海と曰う。一大国に至る。
「末盧国」:又、一海を渡ること千余里にして、末盧国に至る。
•注目点2に続く。
壱岐から対馬、九州沿岸までの距離
(Historyjp 古代史の研究(中島尚彦氏作成)
ダブルペンタ設計法
ダブルペンタ設計法を相似形に拡大
西都原古墳群のメサホ古墳
箸墓古墳のペンタグラム
八倉比売神社の五角形の祭壇の謎を解く(仮説)
20250608
五角形は矢倉比賣神社の祭壇だけでなく「天の真名井」という井戸でも使われている。ただならぬ拘りである。
この神社の奥の古墳はどうも前方後円墳であるらしい。前方部が神社の建設で削られたらしいのである。前方後円墳ならその設計法はかなり以前から研究されてきた。どうもモデルプランがあると言われてきた。これに挑戦しているのが、大商大の清水守民氏と水管理工学研究所の木村俊晃氏である。
清水氏は宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂(メサホ)塚古墳が百舌鳥や古市古墳群のモデルプランになっていると考えている。そのモデルには五芒星(ペンタグラム)がダブルで現れる。後はそれを2倍とか黄金比倍すれば規模を拡大できる。黄金比も設計の要素としては見落とせない。また木村氏も箸墓古墳に五芒星が現れることを確認している。
では何故五角形や五芒星が使われたのか?ここからは僕の想像になるが、それは卑弥呼の鬼道にも関係すると思う。
鬼道の可能性として、①五行説との関係、②神道との関係、③シャーマニズム的な呪術、の3つが言われているが、僕は魏との関係から五行説の影響を受けていたと考える。五行説の哲学は相克相生である。倭国大乱から卑弥呼による共存へという流れはまさに相克相生のプロセスである。
八倉比売の古墳が前方後円墳ならば五角形がシンボルとして祭壇に使われても何らおかしくない。
徳島の横穴式石室の研究
忌部山古墳群や段の塚古墳群の横穴式石室には持ち送り式のドーム型に石が積まれているのが特徴である。その成立の背景などを探る旅に出る。